自分の世話
先日化粧をしたら眉毛がいつもより上手く描けてにやにやしたが、夜になったら落とさなきゃいけないんだなと思うと諸行無常を感じた。毎日あの眉を再現したい。
ちなみに最近、躁転するきっかけがあるのならうつ転するきっかけもあるのではないかと思い、リストアップして気をつけるようにしている。また躁転とうつ転のトリガーは個別で書きたいのだが、主に自分の世話を放棄しはじめるとうつ期に入る。うつ期に入っているから自分の世話を放棄する面もあると思うが、意識して面倒だが自分の世話をすることでひどいうつに突入することが減った気がする。どうしてもできないときもあるが、そんなときはもう自分の場合は飽きるまで寝るしかない。
というわけで今は比較的元気があるので自分の世話のためにシャワーを浴びる。カールアイロンの練習で髪も痛んでいるだろうからトリートメントもする。はやくカールアイロンの達人になりたい。パーソナルカラーとパーソナルデザインが知りたい。そんな感じ。
コンテンツの楽しみ方を忘れてしまった
現在、私は諸事情でわりと貧困で、美術や美しいと思うもの、みたいコンテンツにお金を払う余裕がない。
今まではぼんやりとそんな時期もあるだろうと思っていたが、それが続くとじわじわとつらくなってきた。単純に料金だけでいえば、本も無理すれば買えるし、美術館は約1年前に取得した精神障害者保健福祉手帳で安くなるかもしくは免除だし、映画館も安く行けるし、いま登録している映像配信サービスで映画やアニメをみることだってできると思う。でもなぜか「できない」 のだ。
もしもここに自由に使っていいお金があったらどうなるだろうとたまに考えるが、食費やその他の生活費などに使い、そして使い切ったあとに「みたいコンテンツに払えるだけのお金はあったのに」と後悔するんだろうなと想像がつく。長い間、どうせ楽しむことはできないからとあきらめて遮断しているうちに、自分にとって支払うべきコンテンツへの支払い方、楽しみ方を忘れてしまった気がする。
ちなみに図書館は大好きでよく行って本を借りているし、リクエストすれば読みたい本も入れてくれるかもしれない。でも私がしたいのは「書店で気になった本を取り敢えず購入して、読んだら手放す」という読み方なんだなと思う。きっといつかそんな生活ができる、と思っていることにも疲れたとき、果たしてどうなるんだろうか。
女性が女性と生きるということ
好きな作品があった。きっとこの2人の女性は恋愛関係にはならずとも、最終回の時点ではこれからもともに生きていくような選択をするのだろうと思っていた。というより、してほしかった。だが、男性キャラクターの登場による結婚でエンドを迎えた。もちろん、もともと異性愛者であったり、そういう決まりであったり、いろいろな背景があるだろう。だが私は、女性たちが男性の登場によりけっきょく離ればなれになるその結末をみて、「またか」という無力感やかなしみに襲われた。
こういうことをはっきりと意識しだしたのは、パク・チャヌク監督の映画『お嬢さん』と、ヨン・サンホ監督の映画『新感染 ファイナル・エクスプレス』を観てからだ。どちらも最終的には「これからは女性が女性とともに生きていく」というラストで、この2つの映画を観て、私は自分のなかに無意識のあきらめが根付いていたことに気がついた。それは「女性同士で手を取り合って生きる選択肢はありえない」というものだ。私が少ないながらに触れた国内の作品たちのほとんどのものは、女性には男性がセットであった。どんなに作中で仲がいい女性同士でも、最終的には異性愛の姿に落ち着いた。私は「女性同士で生きるなど夢物語」だとすら思わなかった。この映画たちを観終わってから感動して泣いたと同時に、そういうラストを少しも期待しなかった・考えなかった自分を恥じた。もちろん期待しなくなるに至るまでには、世間の目や一般論、異性愛至上主義、ミソジニー、女性の貧困などさまざまな事情があっただろう。
それから私はもっと女性同士がともに生きる物語がみたい、自分もそういう風に生きたいと思うようになった。そして、そういう実例を世界にひとつでも増やすために、ともに生きてくれるひととの関係を欲するようになった。これはもはや意地でもある。ちなみに女性が女性と生きるといっても、それは恋愛に限らないし2人とも限らない。例えば同人活動や趣味などで仲良くなった友人たちとシェアハウスをする、という形も私のなかでは同じ部類に入る。
現在はそんなことを考えながら、コンセプトやテーマを明確に表現した作品を描くことはできないなりに、色んな女性と女性の形を描けたらと思っている。今まで当たり前のように「女性と女性がともに生きるなどありえない」と刷り込まれてきたように、私は「女性同士で生きていく選択肢もある」ことを世界に少しでも「刷り込んで」いきたい。
ストールが見つからない
つい2日前から英語の基礎の本を読み始めた。
ずっと英会話ができるようになりたいとぼんやり思っていたのだが、学生のころに文法や長文読解でつまずいたことがネックとなっていてなかなか手をつけられなかった。しかし「英会話ができるようになりたい」とぼんやり思うのにも飽きてきた。それと歳を重ねるにつれて、改めてなにかを勉強したいと思い始めたこと、ちょうど図書館でこれなら自分でも楽しんで読めるかもしれないという本を見つけたのも大きい。ちなみに自由国民社の『英語のおさらい』という本で、まだ序盤しか読んでいないが、willとshallの章の小話が面白かった。
もうひとつ、数年前の海外旅行中に大事なストールをなくしてしまった経験も大きい。友人にプレゼントでもらったもので、きれいな青に蝶柄の美しいストールだった。おそらくホテルのどこかに忘れたのだが、フロントで英語のフレーズがうまく出てこないまま空港へ行く時間がきてしまい、あきらめて帰国するしかなかった。英語で質問できさえすれば戻ってきたかもしれないことがいまだに悔しい。
私はダメな方の完璧主義なので、「どうせ自分には無理だろうからやめよう」とやめる可能性もあるが、どうにか楽しみながら少しずつでも身につけていきたい。そもそも忘れ物をしないことが第一だが、もしもまた外国でやらかしてしまったときは今度こそ英語でたずねたい。
傷とマニキュア
私は幼いころから自傷するクセをもっている。特に指先はきれいである時期のほうが圧倒的に短いし、なおったと思ってもまた繰り返す。
そこで最近は開き直ってボロボロの指のままマニキュアを塗っている。というより、マニキュアを無理やり塗ってしまったほうがマニキュアが映えるようにしたいという気持ちがわいて、指をボロボロにしたい欲がおさまるのだ。人にとっては邪道だろうが、自傷の痕跡がある指に自分のテンションを上げたいという思いの入ったマニキュアが塗られている様子は悪くはないなと思う。
これからも自分の指にげんなりしたり、開き直ってマニキュアをしたり、たまになおったりしながら生きていくんだなと思う。
(ちなみに私は双極性障害II型で、現在は調子がいいので連続で文章を書いている。パタリとやんだときはおそらくうつ期です。)
絶望したときこそ美術館
タイトルの通り、絶望したときこそ美術館に行くべきだなと最近よく思う。
元気なときは作品たちの波動みたいなもので逆に気圧されてぐったりしてしまうことが多いけれど、絶望しているときに美術館へ行くと元気になって帰ることが多い。むしろ吹っ切れたが近いのか。
京都の大学を卒業してからバイトを2つ掛け持ちしながら大阪にいた時期があった。朝から夕方までとあるところで働き、夕方から深夜までまた別のところで働いていた。夜の仕事があまりにしんどいのにも関わらずやめる勇気がなく悩んでいたが、休みの日にふと神戸の横尾忠則現代美術館に行こうと思い立った。
平日のへんな時間に行ったこともあり、客は私と2人の男性だけだった。そして何気なく壁に飾られていた派手な配色のマンダラのような作品をみた瞬間、脳を直に揺さぶられたような、そのマンダラの世界に入ってしまったような不思議な感覚になった。作品と目が合ったというか、たしか横尾忠則の本に書いてあったと思うが、「同じ原風景をもつ人同士が惹かれ合う」ような、まさに「チャンネルが合った」ような感覚がした。
そして同時に「夜の仕事をやめよう」と何かが吹っ切れて、数日後にやめた。
悩んでいて答えが出ないとき、絶望しているときほど美術館でトリップできるような作品や、人生にヒントをくれる作品に出会う気がする。なかなか絶望の最中に「美術館に行こう」とは思えないものだが、頭のすみに置いておくのも悪くないと思う。
SNSを一旦やめようと思う
私はSNS依存だ。これまでさまざまなSNSでどれだけのアカウントをつくって消してきたかもはや覚えていない。二次創作のアカウントとなると、毎日100回ほど呟いていたときもあった。
Twitterはたしかサービスが始まってすぐに登録した。つねになにかの文章を読んでいたい、脳内の文章をどこかに流したい自分にとっては最適だった。
二次創作アカウントや創作アカウントを通じて交流し、実際に会い、いまでも仲良くしてもらっている人たちもいて、交友関係はほぼSNSでできているといっても過言ではない。
しかしずっとSNSにつかれを感じていたのも確かだった。特に作品を投稿したあとは、作品へのいいねがついているかどうかということしか考えられず、ついていなければ自己肯定感は地に落ちて、つけばその瞬間は天にも昇る気持ちになった。
我ながら笑えるが、夜に作品を投稿して布団にはいると、きまって寝ているのか起きているのか分からないような、半分起きながら悪夢をみる状態になった。
悪夢の内容も必ず、自分では気に入った作品だったが誰からも反応がない、というものだった。そのうち、この感情のジェットコースターにもうついていけないと思うようになった。
おそらく人と比べることがモチベーションになる人はSNSに向いているのだと思う。自分は自分のいたらなさを痛感し、かといって行動するわけではなく、無気力になり寝込んでしまうタイプだった。
何度か言っているが、自分はポップなものが描けなかった。何度もポップなものを描こうと思い立っては、何も描けなかった。なぜポップなものにこだわるのかというと、その方が断然仕事がきたり、反応がくるからだ。そんなこともあり、最近は、ポップにならなければという思いを捨て、反応に一喜一憂するのではなく自分の根源的なものをさぐりながら作品をつくりたいと思うようになった。矛盾しているかもしれないが、その方が人から反応をもらえるのかもしれない。
SNSでしか交流のない人と交流がなくなるのはいやだなあという思いもある。会ってみたい方もたくさんいる。そんな人たちとの関りをなくしたいわけではないので、気軽に何らかの手段で連絡をもらえたら嬉しい。
Twitterでいつもいいねなどをしてくれた方には本当に感謝している。SNSと楽しく付き合えるようになればまた戻りたい。